【危機の倭城5】ここが倭城?どこの誰も分からない

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KNN企画報道「危機の倭城」シリーズ、第五回は熊川城特集。

山頂部は(問題を抱えつつも)遺構の残りは良いですが、ここの面積は、熊川城全体の20〜30%に過ぎません。では、山麓部はどのようになっているのでしょうか。

熊川倭城

このブログでは、熊川城研究の歴史を見ていきます。

1976年、戦後初の倭城踏査を行った倭城址研究会(와조시 켄큐카이)のメンバー・本田昇氏(혼다 노보루)が、縄張図を作成されています。

南山の東端の岬の南裾には、山頂から見ると、石垣の構築物が見られ、さらに山頂からこの方面へ続く石垣も見られたが、残念ながら未調査に終わってしまった。
次回の調査の折には、南山の北および東北の斜面に、もう少し多くの遺構が見られるであろうと思う。
本田昇「熊川城」(『倭城Ⅰ』倭城址研究会1979)より

2000年には、城郭談話会(조카쿠단와카이)の高田徹氏(다카타 토루)が縄張図を作成されています。

山麓部近くでは、畑・荒畑・宅地等となっている。一部では草木が繁茂しており、足の踏み入れようのない場所も存在している。そのため、図中にも「未調査」と記した部分が散見されるように、今回は調査が及ばなかった部分もある。この点、今回の調査は決して完璧なものではなく、現時点で調査可能な範囲内での調査報告・検討である。総合的な調査・検討は今後に委ねたい。
高田徹「熊川倭城の縄張り」(『倭城の研究第5号』城郭談話会2002)より

2003年には、北陸の高岡徹氏が縄張図を作成しておられますが、ウェブ上にある図面に描かれているのは、山頂部のみとなっています。

2003年度 「『文禄・慶長の役と北陸大名-肥前名護屋陣と熊川倭城を中心に』に関する研究」(その1)

城郭談話会の堀口健弐氏(호리구치 켄지)は、2001年に山頂部を、2006年に山麓部を作図されていますが、その頃には立入禁止区域が設けられたこともあり、山麓部で描かれているのは、小西行長の居館とされる区画のみとなっています。

熊川倭城

倭城を研究している韓国人の学者は10名にも満たないそうです。しかも、予算がつかないため、まともな学術調査は行われていないとのこと。
つまり、山麓部周辺は、未だ分からない部分が多いのです。分からないまま、開発が行われているのです。

熊川倭城

余談ですが、ニュース映像に高田徹氏の縄張図が一瞬映りました。

熊川倭城

※倭城址研究会『倭城Ⅰ』は絶版のため入手不可ですが、昨年発売された本田昇著/八巻孝夫編『全国城郭縄張図集成-阿波を中心とした中世城郭研究論集-』にも、本田氏の縄張図と論稿「韓国の倭城 熊川城の遺構」が収録されています。

本田昇全国城郭縄張図集成

『倭城の研究第5号』

倭城の研究

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